中国南部・雲南省付近を起源とし、西方へのルートと極東へのルートを経て世界各地へ伝播していったと考えられる。
アジア大陸はもちろん、ヨーロッパやアメリカ大陸、さらには南半球でも栽培されている世界的作物である。
鎌倉時代に入宋した禅僧らが、小麦粉で作る素麺を博多経由で日本に持ち帰って「切り麦」が誕生した。その切り麦がうどんの前進と考える説が最も有力とされている。「うどん」と呼ばれるようになったのは江戸時代である。
カテキン ・ ルチン ・ コリン が豊富に含有しています
世界三大穀物の一つと言われる
一こね 二延ばし 三包丁 また 包丁三日 延ばし三月 こね三年などと言われている。
挽きたて・打ちたて・茹でたて ・・・ ご堪能ください
小麦粉や中力粉に少量の食塩と水を加えよく練って熟成させて整形する
水回し → こねる → 踏む(足で踏む地域のある) → 寝かせる(熟成) →
丸める → 休ませる → のす → おりたたむ → 切る → 茹でる
お好みの味付けで さあ 召し上がれ
そばは日本の百歳食
3月3日お雛様の日にそばを雛壇に供え、そばを食べるのが習わしであった。
この風習がいつ頃・どのようにできたのかは定かでないが、少なくも江戸時代中期にはすでに庶民の間で、3月4日にそばを食べるようになっていた。
では、なぜ3日ではなく4日なのか?
それは、ひな人形に一年の別れを告げ揃ってそばを食べてから人形をしまったからではないかと言われる。これは江戸独特のしきたりで、地域によっては3日のひな祭り当日にそばを食べるところもあったようである。
大晦日にそばを食べる風習は江戸時代中期にはすでに庶民の間に根付いていた。
しかし なぜ 大晦日なのか?諸説入り乱れてこれという定説はない。
では、年越しそばの諸説を覗いてみよう
その一・・・「細く長く」説
一番信じられている説である。そばのように細く長く生きて寿命を全うし、家運も末永く続くようにとの願いから
その二・・・「切れやすい」説
そばのようにさっぱりと、一年の苦労や災いと縁を切ろうとの願いを込めて
江戸時代中期 江戸を中心に行われるようになった習わし、引っ越し先の家主・向こう三軒両隣に引っ越してきた挨拶としてそばを配るようになったと言われている。そば以前は小豆粥を重箱に入れて配ったり、小豆や煎り豆をそのまま配ったりしていたようだ。
隣近所へは二つづつ、大家・管理人へは五つというのが決まりであったようだ。
「おそばに末永く」「細く長くおつきあいを宜しく」を一番手軽で安上がりなそばに引っかけた、江戸っ子の洒落であったようだ。江戸の中期にはそれだけ「そば」が庶民生活に浸透していた証拠である。
群馬のうどん
群馬県は以前より二毛作による小麦栽培が盛んで、全国でも有数の小麦産地である。
そのため「うどん」は日常的な食事であり、小麦産地である東毛では「そば」よりも
「うどん」を中心としている店も珍しくない。
二毛作による粉食文化のある群馬県の郷土料理。野菜と麺の煮込みうどん働き者で「かかあ天下」と言われた上州の女性たちが、農作業を終えた後手早く作れ栄養バランスの良い料理として生み出した。
煮干しでだしを取った汁の中に里芋・大根・油揚げ等を入れて軟らかく煮。その中に手打ち太麺を生のまま入れて煮込んで出来あがり。
アツアツのとろりとした味わいが特徴。
あなたのお好みは ・・・ 醤油味 味噌味 それとも...
小麦の産地である桐生を中心とした地域で食べられているやや太めのうど ん。「ひもかわ」と呼ばれる幅広な麺が特徴的で、冬場に煮込みうどんと して各店で工夫されたメニューがある。
小麦の産地、日清製粉発祥の地、歴史的にうどん食文化があった(館林藩の名物)などから街おこしとしてうどんが活用されている。
うどんの種類も、丸麺・細打ち麺・平打ち麺・乱切り麺など、お客様のニに合わせて出したり、各店で麺の特色を出している。
コシが強くつるつる感のある良質地粉を古くから栽培してきた上州の麺文化。
水沢観音の門下で17世紀初頭から旅人や修験者などをもてなし続けてきた。
熟成にたっぷりの時間をかけてできあがった逸品である。